経歴

寺尾さとし物語 ー生い立ちから県議初当選までー

少年時代

寺尾さとしさんは1976年に静岡県静岡市で生まれました。公務員(静岡県職員)の両親のもと、3人きょうだいの末っ子としてのびのびと育ちました。

幼い時から一人でどこへでも行ってしまう活発な子どもだった寺尾さん、迷子になることもしばしばだったそうです。

3~4歳の頃、家族で赤旗まつり(日本共産党が数年に一度開いている全国的なおまつり)に参加した時にもやはり迷子になり、中央舞台で家族が呼び出されたそうですが、本人は係の人に「お母さんが迷子になっちゃった」と話していたようでまるで気に留めていなかったとのこと。好奇心旺盛で怖いもの知らずだったそうです。

小学生の頃、家族で旅行に行った広島で原爆資料館を見学した寺尾さんは衝撃を受けました。一瞬にして多くの人の命を奪った核兵器という「悪魔の兵器」があったこと、原爆で生き残った人もずっと苦しみを抱えていること、その核兵器がいまだに世界中で数万発も存在していること──すべてが驚きでした。こんなことを二度とくりかえしてはいけない、何よりも平和が大事という思いが少年時代の寺尾さんの心に深く刻まれていきました。

中学高校時代

年号が平成に変わり、寺尾さんは中学校に入学します。小学校からメンバーが変わらない中学生活は楽しく、クラスでも部活動(柔道部)でもいつも友だちと話してばかりいました。おしゃべりや悪ふざけが過ぎて先生に怒られることもしょっちゅうです。でも逆に先生がおかしいことを言ってきたときにはクラスの先頭に立って抗議し、受け入れられないとみんなでテストをボイコットしたこともありました。体育祭や文化祭にも一丸になってとりくみ、楽しかった3年間はあっという間に過ぎていきました。

ところが高校に入学した寺尾さんは衝撃を受けます。中学校と雰囲気がまったく違うのです。みんなで和気あいあいと楽しむ雰囲気はなく、いくつかのグループで固まってしまううえにお互いに本音は口にせず、陰で悪口を言うようなクラスだったのです。テストの点数やまわりからどう見られているかということばかりを気にする友人たちにすっかり嫌気がさしてしまいました。

さらに担任の先生も「俺は教師やりたくてやってるわけじゃないから」という人でした。進路について相談した時も「お前の偏差値はいくらだ?とりあえず経済学部でも行っておけば?」と言われ、「友だちも先生も信じられない」と思うようになってしまいました。

高校時代のこの経験が、寺尾さんのその後に大きな影響を与えることになりました。

民青同盟との出会い・大学時代

高校を卒業した寺尾さんは、この先の目標も見つからず1年間の浪人生活を送ります。勉強にも身が入らずに悶々とした生活を送っていたそんな時、民青同盟(日本共産党を相談相手に活動する青年の願い実現をめざす団体)の活動に誘われます。

軽い気持ちで参加した寺尾さんでしたが、民青同盟の活動のなかで最初に感じた魅力は人間関係のあたたかさでした。「何でこの人たちはこんなにやさしいんだろう?」なかなか心を開けない寺尾さんに民青の人たちは気さくに接してくれ、よく話を聞いてくれました。進路が決まった時にはみんなで励ましの寄せ書きを書いて送ってくれました。

1996年、寺尾さんは千葉県の東京情報大学に進学します。大学で新たな友人もでき、アルバイトやサークル活動などにも励みます。民青同盟の活動も千葉の仲間といっしょにやっていくことになりました。

活動のなかでもっとも目を見開かされたことは、日本社会の現実と政治の矛盾を学んだことです。日本の大学の学費は世界一高く世界では学費は無償が当たり前だということ、「過労死」や「サービス残業」など日本には労働者や国民を守るまともなルールがなく大企業の儲けのために政治がゆがめられていること、沖縄の少女暴行事件など米軍基地のために苦しめられ「アメリカいいなり」の現実があること、学ぶことすべてが新鮮でした。寺尾さんは、学ぶことを通じて少しずつ「こんなひどい社会を変えたい」と思うようになっていきました。

日本共産党に入党

民青同盟での学びのなかで、特に寺尾さんが衝撃を受けたのは教育の問題です。教育課程を審議する政府委員が、「教育の中身はせいぜい3割にわかればいい。できない者はできないままで結構、できる人が国を引っ張っていくんです」と発言していることを知り、怒りに震えました。

さらに日本政府が国連から「過度な競争教育によって子どもの発達に支障をきたしている」という勧告をくりかえし受けていることも知りました。「競争教育のストレスのなかで、自分に自信が持てなかったり豊かな人間関係を築くことができないのは、個人の責任ではなく政治の問題なんだ」―寺尾さんは、自分の悩みや苦しみの原因はここにあったのかと目の前の霧が晴れるような思いでした。

こうした学びを通じて政治を変えたい思いが大きくなっていくとともに、日本共産党が「国民が主人公」の社会をめざして一貫してがんばっていることもわかりました。身近にいる党員の人たちが職場の労働者のため、地域のために地道に活動していることも知りました。

「この党を大きくしたい」と初めて応援した1996年の総選挙で日本共産党が躍進し、「自分も社会を変えるために一歩ふみだそう」と寺尾さんは日本共産党に入党しました。

願いや要求の実現のために

日本共産党に入党した寺尾さんはより積極的に民青同盟の活動にとりくみました。原水爆禁止世界大会に参加したり、他大学に通う学生と力をあわせて合同新入生歓迎会にとりくんだりと様々な活動を経験するなかで、「こうした活動をまわりにも知らせたい」と思うようになります。

しかし大学の友人からは「なんでそんなことやってるの?」「真面目なことしててえらいね~(笑)」などと言われ、なかなか自分の思いが伝わりません。「どうせ友だちはわかってくれない」と寺尾さんのなかで高校時代の悪い癖が出てきました。

そんなある日、寺尾さんはある友人から相談を受けました。「大手自動車会社に勤める自分の父親がリストラされようとしている。『いい大学に入れ』と口うるさく言ってきた父親に反発していたけど、学歴のない父親ががんばってきた姿を尊敬もしていた。そんな父親が簡単にリストラされるなんてどう考えていいのかわからない」──友人の悩みを聞いた寺尾さんは言いようのない衝撃を受けました。

当時の政府は産業活力再生法という「リストラ支援法」までつくって大企業のリストラを応援していました。友人の父親はまさにそうした政治の犠牲者です。寺尾さんは「政治に興味があるかないかという狭い見方で友だちを判断するのではなく、願いや要求の実現のためにいっしょに力をあわせることが大切なんだ」と思いました。その友人にいっしょに活動しようとよびかけ、民青同盟の仲間になってくれた時のうれしさは今でも忘れられません。

民青同盟専従者の道を決意

大学3年生の後半にもなるといよいよ就職活動が始まります。寺尾さんも友人といっしょに様々な企業が集まる就職説明会や大学が主催するセミナーに参加します。有価証券報告書から企業の財務状況について研究したり、会計学を深めたりと大学の勉強が面白くなり始めた頃でした。「なんでこんな時期に就職活動をやらないといけないんだろう」――寺尾さんは納得できない思いを抱えていました。

しかも時は就職氷河期、いざ活動を始めてみてもまったく内定は取れません。ある企業の説明会に参加すると、ひたすら社長の自慢話を聞かされたうえに「成功できるかどうかは自分次第だ」とはっぱをかけられるだけのものもありました。友人のなかには早々に就職をあきらめ、卒業後に専門学校への進学を決めた人もいました。

おかしいと思いながらも就職活動を続けていた頃、寺尾さんは突然「民青同盟の専従者として働かないか」と声をかけられます。思いもよらない話だったので本当に驚きました。活動を専門に行なう専従の人の姿は間近に見ていましたが、とても自分にはできないと思っていたからです。それでも「人は誰でも成長の可能性がある。自分の成長を、青年の願い実現や社会を変えることと結びつけてかちとれるのがこの仕事。ぜひやってほしい」と言われ、「こんな自分でいいのならやってみよう」と寺尾さんは専従者への道を決意します。2000年4月、大学を卒業した寺尾さんは民青同盟千葉県委員会で働き始めました。

ともに成長、大きなやりがい

民青同盟で働き始めた寺尾さんは、まずはじめに高校生の担当になりました。会議に来てしゃべりたいことをしゃべりたいだけしゃべる高校生たち、予定していたことがちっとも進まないこともしばしばです。でも「わたし学校では全然しゃべらないよ、、キャラ違うし」「進路のこととか親に話せない、うちお金ないから」などのちょっとしたつぶやきのなかに高校生たちが抱えている生きづらさも感じました。

政治や社会の問題でも、自分たちにとって大事な問題だとわかればエネルギーを発揮するのが高校生です。原水爆禁止世界大会に参加するために毎日のようにみんなで折り鶴を集めたり、通学路に街灯を設置するために調査マップをつくったり、日々ぐんぐん成長する高校生たちに励まされる日々でした。

その次に担当したのは学生分野です。当時大きな問題になっていたのは、奨学金事業を運営する日本育英会が廃止されようとしていたことです。世界一高い学費で苦しむ学生にとって奨学金はまさに命綱でした。「学費を自分でまかなっているので、奨学金を借りて2時間かけて通学してます」「一人暮らしだから奨学金がなくされたら困ります」など多くの学生から悲痛な声が寄せられ、学生たちが大学内や街頭で行った「奨学金を守れ」の署名に列ができるほどの反響がありました。結局、日本育英会は廃止されてしましましたが、学生支援機構に奨学金事業は引き継がれました。

高校生、学生といっしょに成長しながら寺尾さんは大きなやりがいを感じていました。

イラク戦争─青年たちの闘い、今に

2003年、寺尾さんは民青同盟千葉県委員会で委員長になりました。どのように青年の願いにこたえていこうかと考えていた矢先、世界中の反対の声をふみにじってアメリカによるイラク戦争が始まりました。青年のなかに「テロも戦争もイヤだ」「子どもたちを殺すな」「自分たちは戦争したくない」という世論が大きく広がっていました。

アメリカがイラクへの空爆を開始した3月20日、急きょ呼びかけて行った千葉駅前での街頭宣伝には平日にもかかわらず数10人の青年が集まりました。1時間余りで「イラク戦争反対」の署名が400筆を超えて集まり、涙ながらに「がんばってください」と署名する若い女性もいました。寺尾さんたちはストリートミュージシャンなど幅広い青年たちに呼びかけ、200人以上が参加して千葉駅前でイラク戦争反対をうったえる街頭ライブも行いました。寺尾さんは「青年のなかには平和を願うこんなに大きなエネルギーがあるんだ」と実感しました。

結局、開戦の理由とされたイラクの「大量破壊兵器」は見つからず、イラクを泥沼化させたアメリカは国際社会から厳しい批判にさらされました。10年後の2013年、シリアへの軍事介入を企てたアメリカは国際世論に包囲され、断念に追い込まれました。「イラク戦争は止められなかったけど、あの時のたたかいがいまに生きている」───寺尾さんは確信を深めています。

青年たちの声が政治を動かす

1999年に労働者派遣法が全面的に改悪され、それまで「原則禁止」だった派遣労働が自由化されました。不安定な非正規雇用が増える一方で正社員にはサービス残業や長時間過密労働がおしつけられ、多くの青年のなかに「人間らしく働きたい」という切実な要求が広がっていました。

寺尾さんたちは、「若者に仕事を」署名や実態調査を行うなかで青年がモノのように使い捨てられる実態にいくつも出会いました。仕事を突然クビになり、家賃を払えなくなって「ネットカフェ」で寝泊まりする青年もいました。

もっとも衝撃的だったのは「日雇い派遣」で働く青年の実態でした。「夜中の2時に派遣会社に呼び出され、朝6時から仕事だというので行ってみたら『今日の仕事はキャンセルになったから帰ってくれ』と言われた。交通費も出ない」という、究極の使い捨ての実態に寺尾さんは開いた口がふさがりませんでした。

「こんなことを許していたらこの社会に未来はない」──寺尾さんは怒りに震えながら青年の実態を何度も政治にぶつけ、改善を求めました。2007年には政府が初めて「ネットカフェ難民」の存在を認め対策に乗り出しました。そして2013年の参議院選挙では「ブラック企業」根絶を掲げた日本共産党が大きく躍進しました。青年の声と運動が政治を動かしたのです。誰もが安心して働ける社会へ──寺尾さんは引き続き全力を尽くしています。

東日本大震災「政治が復興阻んでいる」

2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。まったく経験したことのない大災害のなかで多くの青年が「何かしたい」と立ち上がりました。寺尾さんたちはまず街頭で被災地に送る募金を集め、さらに液状化の被害を受けた浦安市や美浜区で土砂かきのボランティアを行いました。石巻市、陸前高田市など東北の被災地にも赴きました。参加した青年たちが「もっと多くの人にこの活動を知らせたい」と「ボランティア募集」のチラシを街頭や大学内で配布すると、一度に20人を超える学生が申し込んでくるということもありました。

県内の被災地・旭市の仮設住宅は学生たちと何度も訪問しました。支援バザーやクリスマスコンサート、ビンゴ大会などにとりくみながら、被災者から聞いた「寒さと湿気で耐えられない。タンスの衣類も布団もカビだらけ」という実態をそのままにしておけないと、小松実前県議とともに県に仮設住宅の改善も申し入れました。

ボランティアに参加した青年たちが共通して話していたのは、「政治が復興を阻んでいる」ということです。何よりも被災者の生活や生業の再建に責任を負う政治へ、寺尾さんは決意を深めています。

命と暮らしを守る県政めざして

2012年11月、消費税増税や原発再稼働、沖縄・辺野古への米軍新基地建設など国民の願いをことごとく裏切り続けた民主党・野田政権が世論に追いつめられて衆議院を解散しました。寺尾さんはその矢先、「ぜひ候補者として選挙をたたかってほしい」という要請を受け、千葉1区から立候補しました。「自分に務まるのだろうか」という迷いはありましたが、「青年の願いを阻むおおもとにはいまの政治がある。思い切って訴えよう」と決意しました。結果は、自民党政権が復活し日本共産党は1議席減という悔しい結果になりました。しかし「前回は投票用紙に『脱原発早くしろ。政治家は誰も信じない』と書いたが、話を聞いて今回は共産党とあなたに入れた」という青年との出会いなど手ごたえも感じました。

間もなく、寺尾さんは2013年7月に行なわれる参議院選挙・千葉県選挙区への立候補の要請を受けました。今度は迷いはありませんでした。「安倍政権の危険な暴走にストップをかけられるのは日本共産党しかない」──寺尾さんの訴えに「消費税増税はやめて」「原発だけはなくしてほしい」「憲法9条を何としても守りぬいて」という期待の声が広がりました。若い世代からは「うちの職場もブラックです。ぜひなくしてほしい」という声が寄せられました。参議院選挙で日本共産党は8議席を獲得し、非改選議席とあわせて参議院で11議席に躍進しました。寺尾さんは当選には至りませんでしたが、全県で約23万票を獲得しました。

 2014年2月、寺尾さんは7期28年務めた小松実県議団長の議席を引き継ぐために花見川区から県議選に立候補しました。
 そして、2015年4月に行われた県議選挙で、13,399票を獲得して当選しました。